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反論

もう、11月らしい。
今年という今年は、さすがに反論したい。
いくらなんでも早すぎるではないか。

そんなに経っていないはずだ。
2ヵ月くらいしかなかった。
もちろん、やらなきゃいけなかったことも、かなえたかったことも
全然やってない。

しかし、実感はなくても色々なことがあった。実は。
忙しかった。
東京にも行ったし、ボランティアもやったし、ついに取引先と破綻した。
会社だって辞めるかも。(時期を考えあぐねているだけ)

別れというものは、少し前から決まっているものだと思う。
本人の希望に関わらず、その兆候は現れてくる。
どうしてそのとき、そう言ったのか、
どうしてそうしなかったのか。

まるで別れがスムーズにいくためにとっていた行動などが、後々思い出されることがある。

人は別れを止められないものだと思う。

さてはて。
そうはいっても、先のこと、考えないとなあ。


大きな空に

こんな短い間にも
人は過ちを繰り返す
それが人だと開き直っても
この虚しさは消えない

大きな空を埋めるために
星を捲き歌を響かせる
それに耐えられない人たちの
攻撃の弾が飛び交う

一瞬にして消えていくヒーローたち
私だって同じくらいしか生きられない
タイマーが時を刻んでる

心配しなくても
もうすぐ手遅れになるんだよ
そうすればもう迷うことはないんだ
どうしようもなくなるんだから

閃光が目の奥に残っている
このきらめきは希望か
眩しくて片目を閉じた私には
ほとんど残らない記憶

GONE TOO SOON

ロンドン公演の話を聞いたとき、無理だ、と思ったのだ。
いろいろと弱っていて、あのすばらしい動きをやりつづけるなんて、無理だ。
なんらかの形で、彼は行えないだろう。と思っていた。
まさか、亡くなるとは思っていなかったが。

だからかしれないが、マイケル・ジャクソンが亡くなったことに、さほど驚かなかった。
こういうことだったのか、と思った。
あとから写真を見ると、ロンドン公演の記者会見なんかは、もう天国に片足をつっこんでいるように見える。
ピースのポーズも、みなさん、さようなら、と言っているように見える。

そんなこと、ファンの人が聞いたら怒るのかもしれない。
もちろん残念だとは思っているんだけど、埋葬なんてされてしまって、ちょっと泣いてしまったのだけれど、
それでも、もう決まっていたことのように思えてしまう。
あんなにはっきりと映像で、さようならと言われてしまうと、もう仕方がない。

本当を言うと、昔とてもファンだったというわけではない。
子どものころ、スリラーがヒットして、スーパースターとして知っていて、そういえば
キャプテンEOを観て一時ぽおっとなったような記憶があるけど、それをかっこいいからだと思う感受性がまだなく、
大人になって気が付いたら彼の外見も痛々しい感じになってしまっていた。

亡くなって、やっぱりすごい人だったよなあ、という記憶をもとにyoutubeを観て、驚愕したのだ。
昔の記憶だったからよく分かっていなかったけど、すごい技術だし、感性だし、まあとにかく格好良いではないか。

そいういうわけで、すこしずつDVDを買い、CDを借りている。
マイケル世代なのによく知らなかった私には、聞くたびに驚かされる。
スリラー以前のオフ・ザ・ウォールをきいて、びっくり。曲のテイストとしてはそのころが一番好みなのだが、
そんな曲を歌っていたなんて全然知らなかった。マイケルの曲だと知らずに聞き覚えのある曲もあった。

オフ・ザ・ウォールにはまって、BADとかスリラーのDVDも見直して一段落、デンジェラスを聞いてまたまたびっくり。
こんな進化をとげるとは!
普通、こんなに音楽性を変えると失敗することが多いし、
たいていは、同じ路線を貫くのでは。

その都度変わり続けて、ちゃんと成功するなんて。
特に、今の日本なんて、ある程度成功すると、あとは現状維持といわんばかりに露出を抑えて人気を保ってるやん。
こんなに、自分で切り開いて行く人なんて、本当に稀だ。

聞けば聞くほど、発見があって、その分考えさせられる。


それと同時に、メディアの彼への描き方に対してひどいなあ、と思う。
まあ、それは最初から分かっていたけど、情報を知りたくて雑誌などを広げると、それだけで、「そんなこと書かなくてもいいやん」という部分に必ずつきあたる。

男女の大人のロマンスのイメージと無縁だったとか。

そんなんどうでもいいやん!
そんなにそれって大事か?
本当のことは分からないけど、たとえ女性に対する興味が多少薄かろうが(興味はあったのだと私は思うが)ギラついていなくって、少女漫画に出てくる男の子のようなところが良かったのではないかと思う。
セクシーさが無いのではない。充分ある。だけど生身の男の人のように過剰なところがない。(生身の人は、女性からすると過剰なのだ)
ちょうど、女性が求めている分だけのセクシーさを持っている、だから良い。

そうやってあれやこれやの角度から、少し人と違うところをあげつらって詮索して、ってされている彼がやっぱりとても気の毒だったなあ、と思う。

そうやって、ここ一ヶ月ほど毎日、彼の歌を聴いているけど、好きな歌は毎日変わる。彼に対するイメージも変わる。
ここ最近は、すこし悲しい。

悲劇のヒーローではない、と思う。あんなに才能を開花できたら単なる悲劇ではない。
ただ、メディアを含め、私たちを含め、周りの人間の、弱さを刺激し、攻撃させることにはなってしまったのだろう。
なんだか、色々なことを考えさせてくれる人なのだ。


しかし、彼を再発見して、夢中になって、本当に少女時代のように夢中になれて、
空虚さに悩まされる日々を少し忘れられて、とても今は幸せだ。

そんな日々を人に与えられた彼は、やっぱり幸せな人なんじゃないかと思う。

能動側にある幸せ

おいしいということはなんて幸せなんだろう。
それはうすうす分かっていた。
いや、かなりの実感をもって分かっていた。
しかし、さらにおいしくなる仕組みが分かることも幸せなことかもしれない、と思い始めた。
映画、「南極料理人」を観て。
料理をあまりしない私は、ひょっとして人生の大きな幸せの要素を取り逃がしていたかもしれない。
座っていて、おいしいものが出てくる。これはとても嬉しいことだ。
しかし、これをこうやったら、こうおいしくなって。
こうやったらおいしくなるかもしれなくって、やってみたら、本当においしかった!
なんて、ただ座っているよりももっと幸せを感じられるかもしれない、と初めて思った。

またひとつ、生き甲斐が増えたかもしれない。
しかし、これはザ・味覚の秋だから?
やばい傾向だ。

ただの日

川上弘美のエッセイを読んだ。
言っては悪いが、主婦の日がな一日の物語だ。
それは全くといって良いほど仕事のシーンが出てこないからでもあり、
熱心に何かをしたシーンがほとんど出てこないからでもあり、
ただ、気の赴くままに、一人で何かを食べに出かけて帰ってきました。というシーンが多いからでもある。
実際に書かれていたことがそうであったかは少し自信がないが、私はそのように感じた。

それは何事も成し遂げない休日を送る自分を肯定されているかのようで、
さらにそのようにただの一日を送ることを否定せず、しっかりとまっとうする生き方に憧れさえ生まれた。

そうだ。元来人間は、そんなに一日一日をいわゆる有意義に過ごす生き物ではないはずだ。
大正やら江戸時代やらもっと前は、毎日毎日ステップアップしようとして生きていないはず。
もうお月見の季節ですねいつのまにかそんなに経ったんですね、そういえば
何回か前のお月見のときはああだったなど語り合ったりして、時の流れの速さを実感したりしていたはずだ。
それでいいんじゃないか、と思えるような本だった。

座ることさえ面倒で、ベッドにひっくり返ってエッセイを読む私と、まさにリズムが一致したのかもしれない。
気ぜわしさや、強い自己主張がなく、気持ちを不用意に揺さぶられることがない。
自分のままでいられて、自分の好きだったものを思い出させてくれるような気がした。

休日に予定がみっちり入っていない日はなんだか不安だった。
そして、実際はそんなに行動的に動けず、だらだら過ごすのも必要だと分かっていても、体力が弱い自分が嫌だった。
でも、これからは、あえて、ベッドにひっくりかえってエッセイを読もう。